ただの日記

ただの日記。

社会人生活を振り返るその1

社会人11年目にして、仕事を辞めたいと思うようになった。
今の仕事に不満があるわけではなく、シンプルに「私のいるところではない」と感じてしまった。自分がこの会社、この業界にいることに強く疑問を持ち始めた。
しかし、だからといってやりたいこともないし、目指したい未来もない。
養わなきゃいけない家族もいないし、守らなきゃいけない約束もない。
どこにいけばいいかわからなくなってしまった。
それでも生活はしなくてはならないので、次の仕事をどうするかを考えている。
その前に、なんでこうなったのかを分析してみようと思う。

 

仕事をし始めたのは2011年7月。奇しくも大震災の真っ只中で就活した。
当時、家庭に大きな問題があり、施設にお世話になっていた高校卒業したての私は、
進学の道を諦めて就職するしかなかった。
高校生活3年の間、後2年は精神的に参っていたため、自分の将来など考えたこともなかったし、世の中にどんな仕事があるかもわかっていなかった。
学生時代おぼろげに「システムエンジニアになるのかな私、向いてそうだもんな」とは思っていたが、大卒じゃないとなれないと思っていた。
そのため、就活を始めた最初の頃は「パソコンカタカタしてられる仕事がいい」と、
ハローワークで事務職を探しては1次面接で落ちていた。
時期的にも世の中が混乱していたこと、事務職で新卒未経験採用は難しいこともあり、
4月になっても就職先は決まらなかった。
そんな中、施設職員さんから「なんだかすごいことをしている人がいるけど、会いに行ってみない?」と男を紹介された。

 

その人は、施設出身の子どもたちが就職しづらい現状を嘆き、就職を斡旋する仕事をしている人だった。
前もって聞いていた「すごい人」というのがうさんくさすぎて正直会いたくなかったが、
就職に困っていたのも事実なので、話を聞きに行った。
その人はまず私に「何が好きなの?」と聞いた。
私は迷わず「パソコン触ってることが好き」と答えた。
「じゃあエンジニアになりなよ」とその人はファイルを取り出して提案した。
ちょうど彼の紹介対象の中に、インフラエンジニア系の派遣会社があったのだ。
研修を経て1から育ててくれるという。
一度は憧れたことのある職業だったこと、プログラミングではないネットワークの世界の仕事だということに強く惹かれ、二つ返事で紹介をお願いした。

 

履歴書を書くのに苦労した覚えがある。施設の中にちょうど就活を終えた大学生のボランティアさんがいて、夜遅くまで添削してもらったりした。本当にありがたい存在だった。
その後は1次面接も難なく突破し、家庭の都合についても了承を得て、
最終面接も突破でき、入社となる。
一人暮らしする家も決まり、トントン拍子に生活が一変した。
入社まで1ヶ月の時間があり、その間生活保護で一人暮らしを開始したのもいい経験だった。ケースワーカさんは若手でいい人だった。

 

1ヶ月の間に自分なりに基礎知識を勉強し、いざ入社、2ヶ月研修を受けた。
同期は私を含めて4人。マジで個性が豊かなメンバーですごく楽しかった。
研修終了後、それぞれ別の出向先に配属されるが、私は18歳で女性ということもあり
かなり難航した。会社として前例がなかったらしい。
2週間の自社待機を経て、最初の現場に入場する。
そこには3年いることとなる。

 

最初に任された仕事は端的にいえばコールセンターだった。エンジニア関係ねえ。
と思いつつも、技術的な問い合わせを受けるコールセンターで、
技術的なことが得意ではない一般的なコールセンターのプロのお姉さんと一緒に配属になった。
つまり私は技術担当、彼女が通話担当という感じだ。といっても私も電話に出るのだが。
私は持ち前の明るさで社内で色んな人と仲良くなった。ただ目の前の作業をこなすだけだったが、やればできるので苦しくなかった。
次第に一緒に働くひとも増え、気づけば女性コールセンター部隊が出来上がっていた。
私がいる技術的なコールチーム(4~5人)と、バイトチーム(1~10人)がいて、私はバイトチームのまとめ役だった。
バイトチーム群のリーダのそれこそコールセンターの超プロのお姉さん!という人に、なぜか私は崇拝されていた。
40歳前後くらいのお姉さんが未成年の私に「桜木さんはすごいんです。私にできないことを淡々とやるし、言いたいことはハキハキいう。かっこいいんです」といわれていた。
私は彼女をすごいコールセンターのお姉さんだと思っているし、私にはできないクレーム対応などもきっちりこなすテクニックを持っていて、私のほうこそ尊敬していたのですごく嬉しかった覚えがある。

 

社外の関係部署の人とも仲良くなったり、特別目をかけてくれる先輩にいろんなこと任されてみたり、それはとても充実していた。
当初私は「契約社員」という立場で入社しているが、正社員試験もこのときに受けている。読書感想文がかけなくて泣いていたが、国語の教員免許を持つ同僚に添削してもらいながら書いたりして受かった覚えがある。でも結局面接練習一回もしてないから、私面接強いのかもしれない。大嫌いだけど。

 

コールセンター業務も飽きてきた頃、私はエンジニアとして今後のキャリアをどうするんだ?と思い、別の仕事がしたいと上司に頼んだ。派遣なので正確には営業に言ったりするが詳細は割愛する。
ただその現場では望むような技術的なことはあまりできなかった。最後の1年は「どうしても辞めてほしくない」と現場で揉めたらしく、1年多めにいることになったが、
その間にしたことといえば「オペレータ各位の品質管理」だった。20歳と面談させられる30代って辛いと思う今なら。笑
私達女性部隊とは他に、夜勤シフトを回している別のオペレータ部隊がおり、そこは男性ばっかりだった。
その人達のコールの録音をランダムに再生し、改善点を伝えてあげるという謎の仕事だった。コーチングというものはそこで知った(ちゃんと学んだわけではない)。
人と関わるのは苦ではなかったので、それはそれで淡々とこなした。
そして3年経った日、その現場から去ることとなる。
この頃からパーティ好きだった私は自分の送別会を自分で企画した。
飲み歩いてた街でもらった名刺の居酒屋を貸し切って、関係部署の人も呼んで盛大に送別会をした。といっても20人くらいだけど、本当に楽しかった。いい思い出だった。

 

2つ目の現場はいわゆる監視エンジニアだった。お客様のシステムを運用することはないが、監視システムを運用する人だった。
それでも今までよりもっと技術的で、知らないことだらけで本当にいろんなことを学ばせてもらった。
そこでも社内のいろんな人と仲良くさせてもらって、デスマーチになることがあれば毎週のように飲みに行った。今でも飲みに行くほど、本当に仲良くさせてもらっている。
社内政治の存在や、サラリーマンという働き方もそこで学んだ。
私は派遣なのでリーダになることはできないが、最終的にリーダになった社員さんがメンタルよわよわお兄さんで、実態は私がほとんどを実行していた。
他部署から「とりあえず桜木ちゃんに電話すればなんとかなるって思って」と電話が来ることも増えた。最高に輝いていた気がする。
そこにも4年ほどいることになるが、派遣はどうしても同じ仕事をせざるを得ない。そういう契約なので。
4年の間に部署を異動して新しいことに混ざってみたりいろいろしてみたが、やはり同じプロダクト同じ技術は飽きる。あと成長がなくなるのを感じた。
また、あとから入ってきたスーパーエンジニアの気さくなお兄さんと仲良くなり、
「もっと羽ばたいたほうがいい」と言われたこともあり、退場することを決意した。
というか最終的には「上司が給与を上げてくれない」ことと「現場でいよいよやることがない」という状態に陥ったのでブチキレながら退場した。
それでもたくさんの学びと、本当に素敵な出会いをくれた現場だった。
この頃から、派遣で働くことの限界を感じ始める。
働いている現場で何かが始まろうとしても、私はそれに参加する資格も、一緒に考える資格もないのがむず痒かった。

 

期待して入った3つ目の現場は過去最悪の現場だった。
主に物理マシンを構築・テストし、設置してテストし、資料を納品する、というような仕事だった。仕事内容はまだよかった。問題は人間関係というか社内環境だった。
あんまりいい話じゃないので端的に事実だけお伝えすると、マジでパワハラワードが飛び交っている現場だった。びっくりした、平成の終わりにこんな会社あんのって感じだった。
また、その頃私は精神的におかしくなっていて、人との距離感がわからずめちゃくちゃ傍若無人に生きていた。いや本当にひどかったと思う、当時の上司がいまだに「桜木ちゃんはなぜ敬語が使えないのか」と嘆くほど。申し訳ない。
その現場は1年で辞めた。というか、もう会社ごと辞めた。
派遣の限界を感じた、そしてその会社にいることを幹部の誰もが勧めなかった。
「辞めんの遅すぎ、おまえは2年は無駄にしたと思う」って、辞め際に偉い人に言われた。そんな会社ある?笑

 

そんな感じで、私を救ってくれた会社を8年後に退職した。
何かがおかしくなっていったのは、6年目くらいからだったように思う。
それを確かめるように、同業種の別会社に転職をした。

 

長くなったので転職編は次回にまわそうと思う。
これを読んで思うのは、私は飲みに行けない現場は無理だということ、
ずっとチームで働いてきたこと、3社見てきたけど全然会社によって毛色が違うこと、納得いかない上司の下につくことが精神的に無理なことだなあ。
サラリーマン向いてないなあ。