ただの日記

ただの日記。

Twitterをやめてみた

こどものころはすごく大変な人生で、大人に振り回されっぱなしだった。

18歳で生活保護受けながらだけど自立して、

それまであんなにしにたいって思っていたのが嘘のようになくなって、

毎日が楽しい、自分のために生きるって楽しいんだって思ってた。

 

夜遊びもしたし、彼氏もちょいちょいいたし、友達もたくさんできた。

人生の転機だったのは、結婚を考えた彼氏の存在だった。

結局ひどい別れ方をしたけど、そこからの人生が転落期というか、

振り返ってみても「メンタルがしんどい」と思い始めたのはそこからだった。

破局前から兆候があった。

 

2018年5月頃から、そのときしていた仕事に終わりが見えた。

派遣で3年いた現場で、派遣としての限界も、部署としての限界も見えた。

仕事をやめたい、と思い始めたのはこの頃だ。

ついでに結婚を考える彼氏がいたから、産休とかを考えて

逃げるように家庭に入ってしまおうか、なんて考えたこともあった。

(家庭に入ることを逃げと言っているわけではなく、当時の私には逃げの意味で家庭に入る選択肢を考えていたということ)

 

でもその頃彼氏の浮気?嘘?がバレて、大喧嘩した。

やり直すかどうかをすごく考えたりした。それで彼氏も結婚を意識するようになった。

その流れで彼氏側の親族に私の生い立ちを知られるようになるんだけど、

そのへんから人生が転落していった。

 

2018年8月、結局彼氏と別れることになった。

同じ部署で働いていた人だったから、一緒にいるのも辛いし、仕事もちょうど辞めたかったから、派遣会社には残って現場を変えてもらった。

知っている人のいる現場に派遣されたけど、信じられないくらいブラック現場だった。

彼氏と別れてメンタルブレイクしていたのもあったけど、

序盤で人間関係の構築に失敗した。それでもなんとか面白さを見出して仕事したけど

「合わなかった」。これに尽きる。

7年間自社の人間と一緒に働いたことがなく、この現場にきて初めて

自社の人間とたくさん働く機会があった。

1年弱働いて感じたことは、「この会社早く辞めよう」だった。

 

身近な知り合いに「転職活動するの遅くない?そんなんで転職できるの?」と言われて凹んだり、

「知り合い紹介してあげるよ」といろいろカジュアル面談みたいなの連れて行ってもらったりしたけど、

なんとなく全部合わなくて、というか私の志が低いので、強めのエンジニアを見ると嫌になっていった。

それでもとりあえず食わなきゃいけないから転職エージェントを介して転職活動をした。

運良く大手企業に転職ができた。

 

これがいいことだったのかは正直、判断を迷っている。

派遣上がりの私が、ちゃんとした「会社員」をやるにはすごく戸惑った。

ちゃんと目標を決めさせられ、ちゃんと会社の利益を上げる必要がある。

就業規則とかは他の会社と比べ物にならないくらいゆるいとは思うのだが

(私服だしフレックスだし有給好きに取れるし男性が育休取りやすいし)

2021年7月現在までも、ずっとずっと違和感を覚えながら仕事をしている。

 

転職したのは2019年夏のこと、つまり半年後にコロナ禍が始まる。

親・兄弟がおらず、ひとりぼっちの私には、友達が唯一の救いでしかなかった。

友達でなくても少なくとも「時間を共有して共通言語で楽しく過ごせる相手」が必要だった。

そこに己の存在価値を置き、メンタルを救う薬として依存していた。

 

それがなくなるなんて、誰も想像しなかった世界がきてしまった。

2018年6月くらいからずっとしんどい気持ちをごまかして

なんとか人生を変えようとたくさんの行動をして

破局の辛さ、仕事の辛さ、転職の辛さを時間薬で治めながらここまできた矢先だった。

2020年5月、それまで大丈夫だったメンタルが一気に崩壊した。

18歳ぶりに「しにたい」と思ってしまった。

 

私は自分自身に驚いたし、不安になった。

自分が「しにたい」と思い続けた日々を知っているから、

またそれに戻るのかと怖くなった。怖くなったからSNSで助けを求めた。

まだ世の中が一斉に変わりすぎていて、イベント感もあり、

なんとなく復帰することができた。できたけど、完全に「しにたい」が消えたわけじゃなかった。

 

もとよりこの「しにたい」というメンタルは、完全に消すことはできないものだと知っている。

18歳までの私には「絶対的な悪」がいて、それに関わらなければ

「しにたい」が出てくることはなかった。箱に入れてしまっておけるものだった。

箱に入れていることは覚えているが、他にやりたいことがあるので触らなくて済んでいた。

 

コロナ禍になって、とんでもなく孤独を感じるようになった。

同時に「早く順応しないと」と焦るようになった。

他の人より時間があるのだ、他の人よりできることがあるだろう。

そういう焦りから、何をしても自分を責めるようになっていた。

 

次に限界を迎えたのは2020年の10月だった。

5月の件を経てから、心が折れる思いだった。また出てきてしまったのか。

9月が年度の節目というのもあるかもしれない。

自分の人生を見つめ直したら、とんでもなく存在価値を見失った。

半年たっても「順応」できていない自分を更に責めた。

ただ、多少人と出歩くようにもなっていたのが幸いして、

そんなに周りに迷惑かけずに立ち直れた。

12月にライブがあった。クリスマスもある。なんか楽しいことしよう。

そう思えていた。

 

そして年を越して1月、全てが嫌になった。

ただ単純に生きているのが辛くなった。

資格勉強もダイエットも何もかもうまくいってなかった。

「順応」していない自分も、結局ひとりぼっちな自分も、この先を考えても何も価値を感じない自分も、全部嫌になった。

心を軽くしようなんて思う余裕すらなく、毎晩泣いては「しにたい」とつぶやく日々だった。

痛いのも嫌だから実際に行動することもできない。本当に無能でしかなかった。

 

ただ、1月は自分の誕生日があった。

毎年誰かに祝ってもらっている(祝えと迫っているが正しい)が、

御多分に漏れず、幼馴染とフレンチにディナーの予定をいれていた。

「とりあえずその日は来て」と言われていたので、その日まで生きることだけ考えて

全てを手放した。仕事はするけど、勉強もダイエットも何もかもやめた。

 

やめたらね、不思議と生きれるんですよね。「悪」だったのでしょうね。

 

そのフレンチディナーとか、そのあとフレンチランチも行ってるんだけど、

1vs1でご飯食べてね、私の話もじっくり聞いてくれて、なんていうか

まだ私のことを見てくれている人はいるというか、

「生きてていいんだなあ」と感じる出来事だった。うまくいえないけど。

 

2月の1ヶ月をゆっくり使って、療養した。

あすけんもやめたし、資格勉強もやめた。

「やってみたいことしてみよう」って、歯列矯正を始めるために歯医者に行ったり、

自宅の近くのランチ屋さんに入ってみたりした。

 

その後なんとか復帰することができて、資格の勉強したり、

またちょっと食べるものを気をつけてみたり、というか歯のトラブルが多くて食べるものが限られていたりするけど、刺激のある生活を送れるようになった。

 

そしたら、異動になった。

左遷でも栄転もない、ただ私のやりたいことって言ってある仕事はできそうな部署だから、いろんな人に都合のいい異動だったと思っている。

仕事は順当に忙しくなっていって、心に余裕がなくなっていくのがわかった。

人間関係の再構築も、疲れる要因の一つだった。

次第にメンタルがしんどくなっていった。

 

ただもう「しにたい」を出したくないと強く思っていた。

「しにたい」って思うことこそが一番しんどいんだ。出来もしないことを一番望んでいる、何をしたって救いにならない、そんなモードに入って楽しい奴は一人もいない。

 

私はこれまで精神科やカウンセリングにかかったことがない。

理性が強くて狂った行動をすることもないから薬は必要ないし、

カウンセリングにかけるおかねもないし、費用対効果を考えてしまった。

 

ただ、もう「しにたい」をやめたかった。

何かないのかといろいろ探したところ、なんと会社の保険の福利厚生に

メンタルヘルス事業があった。無料でカウンセリングが受けられるようだった。

すぐ顔色を伺ってしまうので、電話や面談は嫌だった、だからメールをした。

このメールを打つのも泣きながら打った。それほど他人に向かって「しにたい」と言ったことがなかったからだ。

 

SNSに書けるのは、「直接的に言う対象がいない」からだった。

別にあれは誰かに向けて書いているわけじゃない。

誰かにささればいいな、とインターネットに情報共有する意味で書いている。

または後で自分が見る用に、ログとして書いている。

それでも詳細には書かない。書けない。

素直に弱音がはけない。

 

そうしてカウンセリングに月1で通うことになった。

メールしたけど「深刻だから面談にしよう」と言われて面談に行っている。

あんなに自分の話だけをしたのは初めてだった気がする。

1回目のカウンセリングで「他人本位すぎるし極端な考え方をしがち」と言われた。

そうだとは思っていたが、他人に言われると本当にそうなんだなと思えた。

まず自分本位になってみて、と言われて驚いた。

 

他人を思いやれる人が素晴らしい。

他人に時間を割ける人が素晴らしい。

自己犠牲で誰かが幸せになるほうが、私には失うものがないので、価値を感じる。

基本的にそういうマインドで生きていたし、世の中的にも間違っているとは言えないと思っている。なんなら他人の気持ちがわかるのは有効ではないのか?と。

でもそれが行き過ぎているらしい。行き過ぎていいと思っていたけど、だめだったらしい。

それがわかったのは収穫だった。

 

それから他人を見るとき、いかに「自分本位な選択をとるか」を観察した。

決して悪い意味ではなく、どれだけ他人のことを考えずに行動するか、だ。

仕事で関わる人しか普段接することができないので、観察対象はほとんど仕事関係だった。

そして結構自分本位な人が多かった。だから私が苦労しているんだけど。

だったら私もちょっとくらいわがままになってもいいかなって、思えるようになった。

ちょっとだけ自分を変えてみようと思った。

 

そうしたら、急にSNSがつらくなった。

特に他人が言い合っているような話題を見ると、どうしたらよかったのかずっと考え込んでしまうようになった。

そして最近はそういった話題が多く、いろんな人がいろんな意見をSNSにあげている。

それがとんでもなくしんどくなった。理由はまだわからない。

友人のなんでもない日常ツイートですら読めなくなり、

体調が悪くなってしまった。

 

だからすっぱり、Twitterをやめてみた。

ついでにインスタもやめた。

 

アカウント消すのはさすがにもったいないし、

全く見ないのもニュースを手に入れる意味ではもったいないので、

メインのアカウントからログアウトして、

「見たいものだけ」のアカウントを作ってそこに住んでいる。

いろんな意見が飛び交うアカウントや、通知の多い芸能情報はシャットアウトした。

百貨店と水族館のアカウントが一番心地よいことがわかった。

 

1日離れてみてわかったことはたくさんあった。

まず、孤独を感じないこと。

SNSをやめたら余計に孤独になるのでは?と思ってやめていなかったのだが、

まさかの逆だった。

みんながいるから、自分の孤独が際立つということがわかった。

比較対象がいなければ、自分が孤独だと気づかないということ。

これだけでもすごく大きな収穫だった。めちゃめちゃ気が楽。

 

日常的に考えることも減り、Twitterのアプリを開いてもまったりしたTLなので

見るものもなく、スマホを触る時間も減った気がする。ゆっくりゲームする時間が増えただけなんだけどね。

でもその時間があったから、こうしてブログを書こうと思えた。

何かをしてみようという気持ちになれた。

 

常々、情報過多がしんどいという話をしていたが、

最初にその話をしたときにした行動は「SNSアプリのアイコンにつくバッジを消す」だった。

TwitterやLINEの通知がないかスマホを見てしまう自分に疲れたからだった。

これがすごい効果があった。気が楽になった。

今回はもはやTwitterを活用しない、という行動だったけど、

何かを捨てるとこんなに楽になるんだな、と実感している。

 

今のところ、自分の体調のいいときだけ、近い友人の投稿だけ別のアカウントから見ていて、メインのアカウントにはログインすらしていない。

投稿だけできるアプリを使って、生存確認の報告だけしている。

1日2回、朝と夕方と決めて、つぶやいている。

 

これをいつまで続けるのかとか、何か得られるんだろうかとか、

そういうのは全然見えてない。どうなるかわからない。

だけどちょっとだけ「桜木」という人生をお休みします。

 

 

 

*何かあればLINEをください

*本人はすこぶる元気です

 

社会人生活を振り返るその1

社会人11年目にして、仕事を辞めたいと思うようになった。
今の仕事に不満があるわけではなく、シンプルに「私のいるところではない」と感じてしまった。自分がこの会社、この業界にいることに強く疑問を持ち始めた。
しかし、だからといってやりたいこともないし、目指したい未来もない。
養わなきゃいけない家族もいないし、守らなきゃいけない約束もない。
どこにいけばいいかわからなくなってしまった。
それでも生活はしなくてはならないので、次の仕事をどうするかを考えている。
その前に、なんでこうなったのかを分析してみようと思う。

 

仕事をし始めたのは2011年7月。奇しくも大震災の真っ只中で就活した。
当時、家庭に大きな問題があり、施設にお世話になっていた高校卒業したての私は、
進学の道を諦めて就職するしかなかった。
高校生活3年の間、後2年は精神的に参っていたため、自分の将来など考えたこともなかったし、世の中にどんな仕事があるかもわかっていなかった。
学生時代おぼろげに「システムエンジニアになるのかな私、向いてそうだもんな」とは思っていたが、大卒じゃないとなれないと思っていた。
そのため、就活を始めた最初の頃は「パソコンカタカタしてられる仕事がいい」と、
ハローワークで事務職を探しては1次面接で落ちていた。
時期的にも世の中が混乱していたこと、事務職で新卒未経験採用は難しいこともあり、
4月になっても就職先は決まらなかった。
そんな中、施設職員さんから「なんだかすごいことをしている人がいるけど、会いに行ってみない?」と男を紹介された。

 

その人は、施設出身の子どもたちが就職しづらい現状を嘆き、就職を斡旋する仕事をしている人だった。
前もって聞いていた「すごい人」というのがうさんくさすぎて正直会いたくなかったが、
就職に困っていたのも事実なので、話を聞きに行った。
その人はまず私に「何が好きなの?」と聞いた。
私は迷わず「パソコン触ってることが好き」と答えた。
「じゃあエンジニアになりなよ」とその人はファイルを取り出して提案した。
ちょうど彼の紹介対象の中に、インフラエンジニア系の派遣会社があったのだ。
研修を経て1から育ててくれるという。
一度は憧れたことのある職業だったこと、プログラミングではないネットワークの世界の仕事だということに強く惹かれ、二つ返事で紹介をお願いした。

 

履歴書を書くのに苦労した覚えがある。施設の中にちょうど就活を終えた大学生のボランティアさんがいて、夜遅くまで添削してもらったりした。本当にありがたい存在だった。
その後は1次面接も難なく突破し、家庭の都合についても了承を得て、
最終面接も突破でき、入社となる。
一人暮らしする家も決まり、トントン拍子に生活が一変した。
入社まで1ヶ月の時間があり、その間生活保護で一人暮らしを開始したのもいい経験だった。ケースワーカさんは若手でいい人だった。

 

1ヶ月の間に自分なりに基礎知識を勉強し、いざ入社、2ヶ月研修を受けた。
同期は私を含めて4人。マジで個性が豊かなメンバーですごく楽しかった。
研修終了後、それぞれ別の出向先に配属されるが、私は18歳で女性ということもあり
かなり難航した。会社として前例がなかったらしい。
2週間の自社待機を経て、最初の現場に入場する。
そこには3年いることとなる。

 

最初に任された仕事は端的にいえばコールセンターだった。エンジニア関係ねえ。
と思いつつも、技術的な問い合わせを受けるコールセンターで、
技術的なことが得意ではない一般的なコールセンターのプロのお姉さんと一緒に配属になった。
つまり私は技術担当、彼女が通話担当という感じだ。といっても私も電話に出るのだが。
私は持ち前の明るさで社内で色んな人と仲良くなった。ただ目の前の作業をこなすだけだったが、やればできるので苦しくなかった。
次第に一緒に働くひとも増え、気づけば女性コールセンター部隊が出来上がっていた。
私がいる技術的なコールチーム(4~5人)と、バイトチーム(1~10人)がいて、私はバイトチームのまとめ役だった。
バイトチーム群のリーダのそれこそコールセンターの超プロのお姉さん!という人に、なぜか私は崇拝されていた。
40歳前後くらいのお姉さんが未成年の私に「桜木さんはすごいんです。私にできないことを淡々とやるし、言いたいことはハキハキいう。かっこいいんです」といわれていた。
私は彼女をすごいコールセンターのお姉さんだと思っているし、私にはできないクレーム対応などもきっちりこなすテクニックを持っていて、私のほうこそ尊敬していたのですごく嬉しかった覚えがある。

 

社外の関係部署の人とも仲良くなったり、特別目をかけてくれる先輩にいろんなこと任されてみたり、それはとても充実していた。
当初私は「契約社員」という立場で入社しているが、正社員試験もこのときに受けている。読書感想文がかけなくて泣いていたが、国語の教員免許を持つ同僚に添削してもらいながら書いたりして受かった覚えがある。でも結局面接練習一回もしてないから、私面接強いのかもしれない。大嫌いだけど。

 

コールセンター業務も飽きてきた頃、私はエンジニアとして今後のキャリアをどうするんだ?と思い、別の仕事がしたいと上司に頼んだ。派遣なので正確には営業に言ったりするが詳細は割愛する。
ただその現場では望むような技術的なことはあまりできなかった。最後の1年は「どうしても辞めてほしくない」と現場で揉めたらしく、1年多めにいることになったが、
その間にしたことといえば「オペレータ各位の品質管理」だった。20歳と面談させられる30代って辛いと思う今なら。笑
私達女性部隊とは他に、夜勤シフトを回している別のオペレータ部隊がおり、そこは男性ばっかりだった。
その人達のコールの録音をランダムに再生し、改善点を伝えてあげるという謎の仕事だった。コーチングというものはそこで知った(ちゃんと学んだわけではない)。
人と関わるのは苦ではなかったので、それはそれで淡々とこなした。
そして3年経った日、その現場から去ることとなる。
この頃からパーティ好きだった私は自分の送別会を自分で企画した。
飲み歩いてた街でもらった名刺の居酒屋を貸し切って、関係部署の人も呼んで盛大に送別会をした。といっても20人くらいだけど、本当に楽しかった。いい思い出だった。

 

2つ目の現場はいわゆる監視エンジニアだった。お客様のシステムを運用することはないが、監視システムを運用する人だった。
それでも今までよりもっと技術的で、知らないことだらけで本当にいろんなことを学ばせてもらった。
そこでも社内のいろんな人と仲良くさせてもらって、デスマーチになることがあれば毎週のように飲みに行った。今でも飲みに行くほど、本当に仲良くさせてもらっている。
社内政治の存在や、サラリーマンという働き方もそこで学んだ。
私は派遣なのでリーダになることはできないが、最終的にリーダになった社員さんがメンタルよわよわお兄さんで、実態は私がほとんどを実行していた。
他部署から「とりあえず桜木ちゃんに電話すればなんとかなるって思って」と電話が来ることも増えた。最高に輝いていた気がする。
そこにも4年ほどいることになるが、派遣はどうしても同じ仕事をせざるを得ない。そういう契約なので。
4年の間に部署を異動して新しいことに混ざってみたりいろいろしてみたが、やはり同じプロダクト同じ技術は飽きる。あと成長がなくなるのを感じた。
また、あとから入ってきたスーパーエンジニアの気さくなお兄さんと仲良くなり、
「もっと羽ばたいたほうがいい」と言われたこともあり、退場することを決意した。
というか最終的には「上司が給与を上げてくれない」ことと「現場でいよいよやることがない」という状態に陥ったのでブチキレながら退場した。
それでもたくさんの学びと、本当に素敵な出会いをくれた現場だった。
この頃から、派遣で働くことの限界を感じ始める。
働いている現場で何かが始まろうとしても、私はそれに参加する資格も、一緒に考える資格もないのがむず痒かった。

 

期待して入った3つ目の現場は過去最悪の現場だった。
主に物理マシンを構築・テストし、設置してテストし、資料を納品する、というような仕事だった。仕事内容はまだよかった。問題は人間関係というか社内環境だった。
あんまりいい話じゃないので端的に事実だけお伝えすると、マジでパワハラワードが飛び交っている現場だった。びっくりした、平成の終わりにこんな会社あんのって感じだった。
また、その頃私は精神的におかしくなっていて、人との距離感がわからずめちゃくちゃ傍若無人に生きていた。いや本当にひどかったと思う、当時の上司がいまだに「桜木ちゃんはなぜ敬語が使えないのか」と嘆くほど。申し訳ない。
その現場は1年で辞めた。というか、もう会社ごと辞めた。
派遣の限界を感じた、そしてその会社にいることを幹部の誰もが勧めなかった。
「辞めんの遅すぎ、おまえは2年は無駄にしたと思う」って、辞め際に偉い人に言われた。そんな会社ある?笑

 

そんな感じで、私を救ってくれた会社を8年後に退職した。
何かがおかしくなっていったのは、6年目くらいからだったように思う。
それを確かめるように、同業種の別会社に転職をした。

 

長くなったので転職編は次回にまわそうと思う。
これを読んで思うのは、私は飲みに行けない現場は無理だということ、
ずっとチームで働いてきたこと、3社見てきたけど全然会社によって毛色が違うこと、納得いかない上司の下につくことが精神的に無理なことだなあ。
サラリーマン向いてないなあ。